00白山麓に残る一揆の城

城が落ちても、
抵抗は続いた。

1580年に落城。翌年には奪回。鳥越城の歴史は、城主の死後も続く。

鳥越城は、石川県白山市の標高312mの丘陵に築かれた山城である。手取川と大日川に挟まれ、川の向こうには二曲城が見える。この二つの城を拠点に、白山麓の山内衆は織田軍と戦った。[01][02]

1580年、鳥越城は織田方の手に落ち、城主の鈴木出羽守らは命を失った。ところが翌1581年、山内衆は再び蜂起し、鳥越・二曲の両城を取り戻している。指導者を失っても、人々を結ぶ力は残っていた。[02]

白山麓の村々には、寺院と門徒が長い時間をかけて築いた関係があった。鳥越城が「加賀一向一揆の最後の拠点」となるまでには、およそ100年にわたる加賀の政治と信仰の歴史が重なっている。

01 / 信仰と政治

寺と村が結んだ加賀

蓮如の布教から、本願寺による統制へ。

城ができる前へ ↗
03 / 三年の攻防

落城、奪回、再蜂起

1580年から1582年に続いた戦い。

三年の攻防へ ↗

下線のある用語はタップで解説。[番号]から出典を開けます。

011471年から16世紀半ばへ

信仰の結びつきが、
加賀の政治を変えた。

鳥越城の攻防に先立つ約100年。寺院と村々の関係が、地域を動かす力に育っていく。

1471年、本願寺の第8代宗主蓮如は、加賀と越前の境に近い吉崎に拠点を置いた。平易な言葉で教えを伝える手紙を各地へ送り、北陸で多くの信者を獲得した。[08]

信者である門徒は、教えを聞き、行事を営むなどの集まりで結ばれていた。寺院はその結びつきの中心だった。同じ信仰を持つ人々が顔を合わせる関係は、村を越えて協力する土台にもなる。やがて門徒たちは、地域の争いや政治にも集団で関わるようになった。こうした本願寺門徒を中心とする動きが、一向一揆である。[04][07]

守護を支えた門徒が、守護を倒す

1474年、加賀守護富樫政親は、弟との争いで門徒の力を借り、加賀の支配を取り戻した。門徒側も、この争いを通して政治的な存在感を増していった。[09]

しかし、両者の協力は長く続かなかった。1488年、門徒勢力などは政親のいる高尾城を攻め、政親は自害する。かつて守護を助けた人々が、今度はその守護を倒したのである。加賀はこの後、「百姓の持ちたる国」と呼ばれる時代に入った。[07][09]

加賀の寺院から、本願寺の統制へ

地域で大きな力を持ったのが、本泉寺・松岡寺・光教寺の加賀三ヶ寺だった。いずれも蓮如の子が住職を務めた有力寺院で、門徒をまとめ、加賀の政治に関わっていた。[10]

1531年、本願寺の内部対立が加賀を巻き込む争いへ発展する。三ヶ寺側は敗れ、その後は本願寺中央の統制が強まった。寺院や地域の有力者が担ってきた政治は、本願寺の意向をより強く受ける仕組みへ変わっていく。[12]

白山麓にも、こうした寺院と門徒のつながりが広がっていた。後に鳥越城で戦う山内衆は、この地域社会を足場とする勢力だった。

補注「百姓の持ちたる国」という呼び名

この言葉は、守護の支配が揺らいだ加賀の特徴を伝えている。実際の政治には、有力寺院、門徒、土豪などの地域の有力者に加え、富樫氏も関わった。当時の百姓を農民だけに限定し、近代の民主国家と同じ制度を想定すると、実態から離れてしまう。[09]

02川と谷をめぐる拠点

鳥越城を支えた、
周辺の城と寺。

二曲城は川の対岸に、舟岡城は白山麓の入口にあった。寺院はその地域を人のつながりで結んでいた。

鳥越城から大日川を挟んだ対岸に、標高268mの二曲城がある。鳥越城の支城であり、両城は白山麓の中核的な軍事拠点を成していた。1580年の落城も、翌年の奪回も、二つの城はともに経験する。[02][05]

鳥越城からは、手取川と大日川の谷筋を見渡せる。一方、二曲城は小松方面へ向かう谷の入口に近い。さらに手取川を下ると、鶴来付近の舟岡城に至る。平野から白山麓へ入る側に位置するこの城も、一向一揆に関わる拠点だった。[06][15]

川の対岸、谷の入口、平野と山地の境。それぞれの城は異なる位置を占めていた。山の高さに加え、周囲にどんな土地が続くのかによって、城が見渡す範囲や押さえる場所も変わる。

LANDSCAPE ATLAS · 地形から歴史を読む

山・谷・平野のつながり

実標高データ内蔵

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登場する拠点・関連地域の索引(16件)

● 城跡の代表点 ○ 地区の代表点。表示する拠点の活動時期は、選択後の説明に記載。

城跡から見渡す谷と山並み
城跡から見渡す谷と山並み

城跡からの眺望。谷底の田畑や集落と、周囲の山々が見渡せる。

提供写真

城よりも前からあった、寺院の拠点

白山麓には、鳥越城が築かれる前から宗教上の拠点があった。1509年、松岡寺は鮎滝に坊舎を設けた。鮎滝坊は、村々の門徒と有力寺院を結ぶ場所だった。[03][10]

加賀全体へ目を広げると、中心にあったのは金沢御坊である。現在の金沢城の地に1546年に創建されたと伝わり、周囲には寺内町が育った。人々が集まる御坊は、信仰と政治の両面で加賀をまとめる役割を担った。[13]

能美地域の和田山城虚空蔵山城も、一向一揆に関わる軍事拠点だった。加賀には各地に城があり、その背後に寺院や村々があった。鳥越城も、こうした地域の広がりの中に置かれていた。[11]

拠点比較ボード

役割から選ぶ

最も近い相棒

二曲城ふとげじょう

大日川の対岸

鳥越城の支城

大日川を挟んで鳥越城と向かい合う標高268mの山城。谷を挟む尾根に曲輪を配置し、鳥越城とともに1580〜1582年の攻防の舞台となった。[02][03][05]

白山麓の入口側

舟岡城ふなおかじょう

鶴来付近・手取川の下流側

白山麓の入口を押さえる城

鶴来付近、手取川を下った先に位置する。山地から加賀平野へと地形が開く側にあり、白山麓の城々と関わる軍事拠点だった。[06]

加賀の広域中心

金沢御坊かなざわごぼう

現在の金沢城の地

加賀の信仰と政治の中心

1546年創建と伝わる本願寺の拠点。周囲には寺内町が発達した。1580年に織田方に攻略され、その跡地は金沢城となった。[13]

城より前の基盤

鮎滝坊・地域の寺院あゆたきぼう

白山麓・門徒の集まる地域

村々と有力寺院を結ぶ坊舎

1509年に松岡寺が坊舎を建立。白山麓に根づいた門徒のつながりを伝える、鳥越城の築城に先立つ宗教拠点である。[03][10]

別の地域の比較例

和田山城・虚空蔵山城わだやまじょう・こくぞうやまじょう

能美地域

能美地域の一向一揆の城

和田山城は寺井地域、虚空蔵山城は辰口地域に位置する。平野の縁や丘陵に築かれた、加賀の軍事拠点である。[11]

拠点を選ぶと、位置と役割が切り替わる。

各拠点間の具体的な指揮系統は分かっていない。

031570年代の白山麓

織田軍の進出に備え、
山を軍事拠点に変える。

鳥越城を率いた鈴木出羽守。その基盤は、手取川・大日川流域の山内衆にあった。

1570年、大坂の本願寺と織田信長の戦争が始まった。北陸にも織田軍が進出し、加賀の門徒勢力は防衛を迫られる。鳥越城は、この対立が深まる1570年代に、織田軍への備えとして整えられたと考えられている。[04][06]

城を率いたのは鈴木出羽守である。手取川・大日川流域の門徒組織は山内惣庄と呼ばれ、鈴木はその指導者だった。城主として山上の守りを固めることと、地域の門徒をまとめることは、鈴木にとって一続きの役割だった。[02]

近くには、二曲右京進が城主と伝わる二曲城があった。市の解説は、二曲城を拡張するとともに鳥越城を築いた経緯を紹介している。川を挟む二つの山が、組み合わされて防衛の拠点になったのである。[03][05]

山上に人を集めるには、平場や建物、食料を蓄える場所が要る。鳥越城に残る曲輪や建物跡からは、守りを固めると同時に、人が活動する場所を整えたことが分かる。やがて攻撃を受ける城には、戦うための地形と、そこで活動を続けるための空間が必要だった。

補注築城年と鈴木出羽守の出自

正確な築城年は分かっていない。鈴木出羽守の出自にも、在地の鈴木氏とする説と、紀伊雑賀とのつながりを重視する説がある。白山市の解説も両説を紹介している。[06]

04曲輪・土塁・堀切・虎口

山の形を変えて、
城をつくる。

平らにする。土を盛る。尾根を断つ。鳥越城の守りは、地面そのものに組み込まれていた。

山の斜面は、登ってくる敵にとって障害になる。その一方で、斜面のままでは建物を建てにくく、大勢の人がとどまることも難しい。そこで山を削り、土を盛って曲輪と呼ばれる平場をつくる。鳥越城では本丸を中心に、二の丸、三の丸、後二の丸、後三の丸などが尾根に連なる。[02]

曲輪の縁には土塁を築き、近づく相手との間に高低差を設ける。歩きやすい尾根は堀切で断ち、城の入口である虎口には枡形などの仕掛けを置く。広い場所から狭い入口へ進ませ、向きを変えさせることで、攻める側の動きを制約する。

こうした曲輪・堀・通路の配置が縄張りである。鳥越城を立体で見ると、平場の周囲を斜面が囲み、出入りできる場所が限られる様子を追うことができる。

配置の根拠を、平面図で読む

鳥越城跡平面図
鳥越城跡平面図

本丸、二の丸、三の丸、後二の丸、後三の丸と、周囲の等高線。縮尺は図中の50mスケールを参照。

提供図面/作成:白山市観光文化スポーツ部
鳥越城・城域を拡大して読む

曲輪と堀を、地形と断面で見る

曲輪や堀を選ぶと、その場所へ拡大します。

堀を選ぶとA–B断面も表示します。高さ1倍では、横と高さが同じ縮尺です。「提供平面図と比較」で原図の同じ場所を確認できます。

ドラッグで回転、「移動」で位置調整。ホイールや2本指で拡大できます。元図の線を地形に重ねて、堀や曲輪の位置を照合できます。

比較する現在の地形と比較する/二曲城を見る
RECONSTRUCTION · 記録と地形を重ねる

現在の山地形と、曲輪の位置

現在のDEM+概略配置

ドラッグで回転、+/−で拡大・縮小。高さ1倍が縦横の実寸比率。

図の資料地形の作成方法と再構成の範囲

提供平面図の標高付き等高線25区間に加え、曲輪の縁と、堀底・堀肩・土塁天端の17本の線を数値化。図中の50mスケールを基準に位置を合わせ、約0.71m間隔の地形を作成した。堀底と両岸を別の標高線として取り込み、堀底の低まりを保ちながら、格子に由来する細かな凹凸を整えている。

等高線に書かれた数値以外の、堀底・堀肩・曲輪内部の標高は周辺の等高線からの推定。断面は3Dと同じ地形データから切り出し、横と高さを同じ縮尺で表示する。表示間隔は測量精度を表すものではない。

再構成したのは提供図に記録された地形であり、戦国期の完全復元ではない。提供図と市パンフレットでは二の丸・中の丸などの区分が異なるため、名称は提供図に合わせた。二曲城の表示は市パンフレットの配置と現在の標高データによる。

曲輪・土塁・堀切・枡形虎口

つくる・外す・通ってみる

構造の原理模型
曲輪

斜面に平場をつくる

山を削り、土を盛って、建物や人のための場所を確保する。曲輪を段違いに置くと、上の曲輪が下の曲輪を支える構成になる。

鳥越・二曲鳥越城の本丸や二の丸では、建物の柱穴や礎石が見つかっている。[02]

土塁

土を盛り、防御の壁にする

曲輪の縁に土を積み上げ、外側との高低差を増やす。堀や急斜面と組み合わせることで、内側へ近づきにくい地形をつくる。

鳥越・二曲鳥越城の曲輪は、空堀や土塁によって区切られていた。[03]

堀切

尾根を横断する溝を掘る

尾根は山の中では歩きやすい。そこを横切る溝で断つと、進む人は一度下って登り直すことになる。溝の向こうからは守る側が待ち構える。

鳥越・二曲二曲城は、谷を挟む尾根を堀切などで区画している。[03]

枡形

入口で進路を曲げる

出入口を土塁や石垣で囲み、折れ曲がる通路にする。攻め手は進む方向を変える必要があり、まとまって一気に入りにくくなる。

鳥越・二曲鳥越城では枡形門と石垣の遺構が見つかっている。[02]

構造を選び、スライダーで変形。「進み方を再生」で経路が動きます。鳥越城の実測図ではなく、構造の働きを示す模型。

現地の入口を見る

復元された枡形門と石垣
復元された枡形門と石垣

復元整備された枡形門。門の幅と左右の石垣から、入口の構成が分かる。

提供写真
現地の記録二の丸・後三の丸・あやめが池の案内板を見る
二の丸の案内板
二の丸の案内板

二の丸の土塁と周囲の曲輪を解説する現地案内板。

提供写真
後三の丸の案内板
後三の丸の案内板

後三の丸の配置図と、発掘調査の写真を掲載する現地案内板。

提供写真
あやめが池の案内板
あやめが池の案内板

城内の水の確保について記した現地案内板。

提供写真

城を使う者が変わり、造りも変わる

鳥越城では、一向一揆の時期と、織田方が占領した時期の遺構が見つかっている。城を奪った側も、同じ山を守りの拠点として使い、改修を重ねた。城跡に残る石垣や建物跡には、持ち主が入れ替わった歴史が刻まれている。[03]

051570〜1580年

大坂で続く戦争が、
白山麓に及ぶ。

本願寺と信長の対立は10年に及んだ。北陸では柴田勝家らが進出し、加賀の拠点を奪っていく。

1570年に始まった石山合戦で、本願寺を率いたのは第11代宗主の顕如だった。大坂の本願寺は各地の寺院や門徒と結ばれており、信長との対立は畿内から遠く離れた加賀にも及んだ。白山麓で城が整えられたのも、この戦争のさなかである。[04]

織田方の北陸攻略を担ったのは柴田勝家らだった。越前を足場として加賀へ進み、1580年には金沢御坊を陥落させる。加賀の門徒勢力は、信仰と政治の中心を失った。御坊の跡には佐久間盛政が入り、織田方の城として整備が始まる。[13]

同じ1580年、大坂では顕如と信長の講和が成立し、石山合戦は終結へ向かった。だが、白山麓の山内衆は抵抗を続けた。鳥越城と二曲城が、織田軍に対抗する拠点として残ったのである。[02][04]

加賀の中心が織田方に移るなかで、戦いは白山麓へと絞られていく。鳥越城が「最後の拠点」と呼ばれるのは、この局面からだ。

本願寺をめぐる大きな戦争大坂

石山合戦が続く。
1580年、顕如が講和へ。

北陸での軍事行動加賀

金沢御坊が陥落。
白山麓では抵抗が続く。

061580・1581・1582年

落城、奪回、
そして最後の蜂起。

鳥越城と二曲城は、一度の落城で歴史を閉じなかった。

1580年――指導者を失う

金沢御坊の陥落後も抵抗していた山内衆に、織田軍の攻撃が及んだ。鈴木出羽守ら指導者は討たれ、鳥越城と二曲城は落城した。川を挟んで地域を守っていた二つの城は、ともに織田方のものとなった。[01][02]

占領後の城には織田方の兵が置かれた。二曲城について、市のパンフレットは毛利兵衛が300人を率いて駐屯したと記している。山内衆の拠点だった城は、今度はこの地域を押さえる側の拠点として使われることになった。[03]

1581年――城を取り戻す

ところが翌年、山内衆は再び蜂起した。織田方が駐屯する鳥越・二曲の両城を攻め、奪回したのである。城主の死と城の喪失を経ても、地域には兵を集め、行動を共にする力が残っていた。[02]

この再起からは、村々と門徒の結びつきが抵抗を支えていたことがうかがえる。

織田方は反撃に出た。佐久間盛政が山内衆を鎮圧し、両城は再び織田方の支配に戻る。[02]

1582年――再蜂起と処刑

翌1582年、天正10年にも山内衆は蜂起した。織田方はこれを鎮圧し、300人余りを処刑した。鳥越城と二曲城を拠点とする組織的な抵抗は終わり、加賀一向一揆は解体された。[02][03]

動かして読む年表

1471〜1583年の年表

14711583

年を選択すると、その年の出来事を表示。

1471文明3年
時代の転換点 01

蓮如、吉崎へ

蓮如が吉崎に拠点を置き、北陸で本願寺の教えを広める。門徒と寺院の結びつきが育つ。[08]

加賀・信仰の中心吉崎を拠点に布教
鳥越と白山麓門徒のつながりが拡大
広い歴史の中では室町時代
1488長享2年
時代の転換点 02

富樫政親の死

門徒勢力などが高尾城の富樫政親を攻め、政親が自害。寺院や門徒が加賀の政治で大きな力を持つ。[09]

加賀・信仰の中心守護・富樫政親が敗れる
鳥越と白山麓地域勢力の影響が増大
広い歴史の中では戦国時代の地域政治
1531享禄4年
時代の転換点 03

本願寺の統制が強まる

本願寺内部の争いで加賀三ヶ寺側が敗れる。その後、本願寺中央の加賀に対する統制が強まる。[12]

加賀・信仰の中心加賀三ヶ寺側の敗北
鳥越と白山麓本願寺と地域の関係が変化
広い歴史の中では本願寺の内部抗争
1546天文15年
時代の転換点 04

金沢御坊の成立

現在の金沢城の地に金沢御坊が創建されたと伝わる。周囲に寺内町が育ち、門徒の中心地となる。[13]

加賀・信仰の中心金沢御坊の成立
鳥越と白山麓白山麓と加賀の中心
広い歴史の中では寺院を中心とする町の発達
1570元亀元年
時代の転換点 05

石山合戦が始まる

本願寺と織田信長の戦争が始まる。1570年代、加賀でも織田軍の進出に備えた防衛が進む。[04][06]

加賀・信仰の中心本願寺と織田方が対立
鳥越と白山麓鳥越・二曲を拠点に防衛
広い歴史の中では大坂を中心に石山合戦
1580天正8年
時代の転換点 06

金沢御坊と鳥越・二曲の陥落

金沢御坊が織田方に落ちる。白山麓では鈴木出羽守らが討たれ、鳥越・二曲の両城も陥落した。[01][02][13]

加賀・信仰の中心金沢御坊の陥落
鳥越と白山麓両城が織田方の占領下に
広い歴史の中では顕如と信長が講和
1581天正9年
時代の転換点 07

山内衆が両城を奪回

山内衆が蜂起して鳥越城と二曲城を取り戻す。その後、佐久間盛政が山内衆を鎮圧した。[02]

加賀・信仰の中心金沢は織田方の拠点
鳥越と白山麓奪回の後、再び鎮圧
広い歴史の中では信長の勢力が拡大
1582天正10年
時代の転換点 08

再蜂起と組織的抵抗の終焉

山内衆が再び蜂起するが鎮圧され、300人余りが処刑される。加賀一向一揆は解体された。[02][13]

加賀・信仰の中心織田方の支配下
鳥越と白山麓最後の蜂起と処刑
広い歴史の中では6月、本能寺の変
1583天正11年
時代の転換点 09

前田利家、金沢城に入る

賤ヶ岳の合戦で柴田勝家と佐久間盛政が敗れる。前田利家が金沢城に入り、城と城下町の整備を進める。[13]

加賀・信仰の中心金沢城に前田利家
鳥越と白山麓城跡に残る攻防の歴史
広い歴史の中では賤ヶ岳の合戦
補注鈴木出羽守の死をめぐる記述

市のパンフレットは鈴木出羽守らの死を「謀殺」と記し、英語展示解説は降伏交渉に見せかけた呼び出しを紹介している。交渉の経緯や戦闘の順序には資料間で違いがあるため、本文では複数の公的解説に共通する落城・奪回・再蜂起の経過を採った。[02][03][06]

071583年から現代へ

加賀の中心は金沢へ。
鳥越城は山に残った。

戦いの後、金沢は前田氏の城下町へ発展し、鳥越・二曲はかつての攻防を伝える城跡となった。

山内衆の最後の蜂起が鎮圧された1582年、その6月には本能寺の変で織田信長が死んだ。翌1583年、柴田勝家と羽柴秀吉は賤ヶ岳で戦い、勝家側が敗れる。佐久間盛政も敗れ、前田利家が金沢城に入った。[13]

かつての金沢御坊の地は、織田方の城を経て、前田氏の政治の中心となる。金沢では城と城下町の整備が進み、のちの加賀藩の中心都市が形づくられていった。一方、鳥越城と二曲城は、山内衆が最後まで抵抗した場所として歴史に残った。

一向一揆の軍事的な組織は解体されたが、門徒の信仰はその後も地域に受け継がれた。支配の仕組みが変わった後にも、寺院と村々の暮らしは続いていく。

金沢

金沢御坊佐久間盛政の金沢城前田氏の政治の中心

白山麓

鳥越城・二曲城軍事的抵抗の終わり城跡・調査・史跡として継承

発掘で、城の内部が姿を現す

鳥越城では1977年から発掘調査が重ねられ、地下に残る建物跡や、戦争と暮らしに関わる品々が見つかった。文献が伝える城主や戦いの記録に、城内で人々が活動した具体的な跡が加わっていった。[18]

1985年9月3日、鳥越城と二曲城は「鳥越城跡 二曲城跡」として国の史跡に指定された。2001年には鳥越一向一揆歴史館が開館し、発掘された資料や模型を通して、城と地域の歴史を伝える場所になった。[16][17]

1977〜発掘で調べる
1985二城を国史跡に
2001歴史館が開館
地域の歴史を読む場所へ
08発掘された城の暮らし

米を蓄え、文字を書き、
茶碗を使う。

鉄砲玉と一緒に、食料や生活の道具が地中に残った。鳥越城には、戦いを続ける人々の日常があった。

本丸から見つかった大量の炭化米には、籾がついたものが多かった。甕の中にも米が残っており、城には食料が蓄えられていた。山上に兵を置き、戦いを続けるには、武器と同じように食料が欠かせない。[14]

発掘された品々は、その備えを具体的に伝えている。鉄砲玉は城内の広い範囲に散らばり、硯や天目茶碗、皿などの生活道具も出土した。こうした持ち運べる品を遺物という。食べる、書く、道具を手入れする。城内では、さまざまな活動が行われていた。[02][14]

地面には、建物を支えた礎石や、掘立柱建物の柱穴も残っていた。堀や石垣、建物跡のように、その場所に残る構造物や痕跡が遺構である。柱の位置が分かれば、失われた建物の大きさや向きもたどれる。[02][18]

掘立柱建物跡の現地写真
掘立柱建物跡

発掘で確認された柱の位置を、木柱で示した整備表示。

提供写真
石室状土坑跡の現地写真
石室状土坑跡

石を使った土坑の跡。「石室状」は形を表す名称で、詳しい用途は不明。

提供写真
発掘の記録本丸の案内板と建物の変遷図を見る
本丸の案内板と建物の変遷図
本丸の案内板と建物の変遷図

本丸の柱穴と、建物配置の変遷を示す現地案内板。

提供写真
解説画像 / 01米と甕の解説画像AI生成の参考画像

炭化した米と甕

山上の備蓄

本丸を中心に大量の炭化米が出土し、その多くには籾がついていた。1994年に見つかった4個の甕のうち、2個の内部からも炭化米が出ている。戦いに備えて蓄えられた米とみられる。[14]

解説画像 / 02鉄砲玉の解説画像AI生成の参考画像

鉄砲玉

火器を使った戦い

調査された城内のほぼ全域から、銅や鉛の鉄砲玉が見つかった。山の斜面と堀を利用する守りに、鉄砲を使う戦いが重なっていた。[14]

解説画像 / 03硯と筆の解説画像AI生成の参考画像

硯と建物跡

文字を扱う空間

本丸からは硯が出土している。城内に、文字を書くための道具が持ち込まれていたのである。柱穴や礎石は、その周囲に建物が並んでいたことを伝える。[14][18]

解説画像 / 04天目茶碗の参考画像AI生成の参考画像

茶碗・陶磁器

城内で使われた器

天目茶碗や白磁の皿などが出土し、熱を受けた器も残る。食事や茶に用いる器は、戦いの記録からは見えにくい城の生活を伝えている。[02][14]

補注焼けた遺物の年代

炭化米や熱を受けた器だけから、1580・1581・1582年のどの戦いで焼けたかを決めることはできない。年代の検討には、出土した地層や建物の建て替えの順序も用いる。[03][18]

09城跡と歴史館

本丸から、
川の向こうを見る。

山上の眺めと、地中から出た品々。その両方に、鳥越城で過ごした人々の跡が残る。

城跡で本丸に立つと、周囲の谷と山並みが目に入る。下を流れる川の向こうには二曲城があり、その先にも道と集落が続いていた。鳥越城の位置は、白山麓の広がりの中で見るとよく分かる。

足もとには曲輪の段差があり、入口には復元された門が立つ。歴史館には、そこで使われた米の甕や鉄砲玉、硯がある。地形は城の守りを、道具は城を支えた活動を伝えている。

鳥越城には、城を守った時期も、奪われた時期も、取り戻した時期もあった。いま山に残る平場と斜面は、その三年間の舞台である。

城跡から歴史館へ

01 / 本丸

谷と対岸の二曲城

手取川・大日川の谷筋と、二つの城の位置関係が分かる場所。

02 / 城内

曲輪と入口の段差

平場の縁、土塁、門の周囲に残る、地形を使った守り。

03 / 歴史館

城から出た道具

炭化米、鉄砲玉、器や硯。山上で行われていた活動を伝える資料。

巻末5問の歴史クイズ
全5問

鳥越城の歴史クイズ

0 / 5 回答
Q1鳥越城と大日川を挟んで向かい合う支城は?
解答と解説

正解:A。二曲城は大日川の対岸に位置し、鳥越城とともに山内衆の軍事拠点となった。 本文へ ↗

Q21531年の内部抗争後、加賀ではどのような変化が起きた?
解答と解説

正解:B。加賀三ヶ寺側の敗北を経て、本願寺中央の統制が強まった。 本文へ ↗

Q31580年に落城した鳥越・二曲の両城は、翌年どうなった?
解答と解説

正解:C。1581年に山内衆が両城を奪回し、その後に佐久間盛政が鎮圧した。 本文へ ↗

Q4山城の堀切には、どのような働きがある?
解答と解説

正解:B。尾根を横断する溝を掘り、歩きやすい尾根をそのまま進めないようにする。 本文へ ↗

Q5本丸の炭化米と甕は、城内のどの活動を伝えている?
解答と解説

正解:C。籾付きの炭化米が多く、甕の内部からも米が出土した。城に備蓄された食料とみられる。 本文へ ↗

選ぶと、その場で理由が分かります。

人物・地名・城の用語

用語・人物索引

読み方と意味から、本文の関連箇所へ。

53語

地名・拠点

鮎滝坊あゆたきぼう

松岡寺に関わる白山麓の宗教拠点。1509年に坊舎が建立された。現在の白山市相滝町にあたる地域。[03]

周辺の城と寺で読む ↗
できごと

石山合戦いしやまかっせん

1570〜1580年に続いた、本願寺と織田信長の戦争。大坂の本願寺を中心に、各地の門徒勢力も関わった。[04]

戦いが近づくで読む ↗
信仰

一向一揆いっこういっき

本願寺につながる浄土真宗の門徒らが結んだ集団行動や、その勢力。戦国時代には各地で領主や織田政権と争った。[07]

信仰と加賀の政治で読む ↗
地名・拠点

越前えちぜん

昔の国の名。おおむね現在の福井県北東部にあたる。織田軍による加賀攻略の足場となった。[13]

戦いが近づくで読む ↗
信仰

加賀三ヶ寺かがさんかじ

本泉寺・松岡寺・光教寺の総称。蓮如の子が住職を務めた加賀の有力寺院。1531年の本願寺内部の争いで敗れた。[10][12]

周辺の城と寺で読む ↗
地名・拠点

金沢御坊かなざわごぼう

現在の金沢城の地に1546年に創建されたと伝わる本願寺の拠点。金沢御堂・尾山御坊ともいう。1580年に織田方に陥落した。[13]

周辺の城と寺で読む ↗
地名・拠点

紀伊雑賀きいさいか

現在の和歌山市付近の地域。戦国時代の武装勢力・雑賀衆で知られ、鈴木出羽守の出自をこの地域に求める説がある。[06]

鳥越城の誕生で読む ↗
城の構造

曲輪くるわ

城内を区切った区画。山城では斜面を削ったり土を盛ったりして平場をつくる。郭とも書き、本丸や二の丸も曲輪の名称。[02][03]

山を城にするで読む ↗
地名・拠点

虚空蔵山城こくぞうやまじょう

現在の能美市辰口地域にある山城。一向一揆に関わる加賀の軍事拠点の一つ。[11]

周辺の城と寺で読む ↗
城の構造

虎口こぐち

城や曲輪の出入口。人や物資を通しながら守るため、門・土塁・石垣などの工夫が集中する。

山を城にするで読む ↗
信仰

御坊ごぼう

本願寺に関わる寺院・宗教施設などの呼び名。金沢御坊は加賀の信仰と政治の中心となった。[13]

周辺の城と寺で読む ↗
人物

佐久間盛政さくまもりまさ

柴田勝家のもとで活動した織田方の武将。金沢城主となり、鳥越・二曲で再び起きた抵抗を鎮圧した。[02][13]

三年の攻防で読む ↗
考古学

史跡しせき

歴史上の価値が高い遺跡。鳥越城跡と二曲城跡は1985年に国の史跡に指定された。[16]

戦いの後で読む ↗
人物

柴田勝家しばたかついえ

織田信長の武将。北陸の攻略を担い、1580年には金沢御坊を攻略。山内衆との戦いでも織田方の中心となった。[01][13]

戦いが近づくで読む ↗
しくみ

守護しゅご

室町幕府が国ごとに置いた武士の役職。軍事や治安を担い、地域を支配する力を強めた。富樫氏は加賀の守護を務めた。[09]

信仰と加賀の政治で読む ↗
地名・拠点

松岡寺しょうこうじ

加賀三ヶ寺の一つ。能美郡波佐谷を拠点とし、1509年には白山麓の鮎滝にも坊舎を設けた。[03][10]

周辺の城と寺で読む ↗
しくみ

寺内町じないまち

寺院を中心に発達した町。参詣する人々や商いが集まり、金沢御坊の周囲にも形成された。[13]

周辺の城と寺で読む ↗
人物

鈴木出羽守すずきでわのかみ

鳥越城主で、山内衆の指導者。1580年に討たれた。出自には在地の鈴木氏とする説、紀伊雑賀との関係を重視する説がある。[02][06]

鳥越城の誕生で読む ↗
地名・拠点

高尾城たかおじょう

金沢市南部にあった城。1488年に富樫政親が攻められた場所。鳥越城の1580年代の攻防とは、約90年の隔たりがある。[09]

信仰と加賀の政治で読む ↗
考古学

炭化米たんかまい

熱で炭のようになった米。鳥越城の本丸では大量に見つかり、籾付きのものなどから備蓄との関係が考えられている。[14]

城に暮らした人々で読む ↗
考古学

つけたり

史跡の正式名称に使われる語。ここでは「鳥越城跡 附 二曲城跡」となり、関わりの深い二曲城跡も合わせて指定されていることが分かる。[16]

戦いの後で読む ↗
できごと

天正てんしょう

1573年から1592年に使われた元号。天正8年は1580年、9年は1581年、10年は1582年。本ページは西暦を中心に記す。

三年の攻防で読む ↗
考古学

天目茶碗てんもくぢゃわん

主に鉄分を含む釉薬を使った、黒・褐色系などの茶碗の総称。鳥越城でも破片が出土し、火を受けたものがある。[14]

城に暮らした人々で読む ↗
人物

富樫政親とがしまさちか

加賀の守護。1488年に一向一揆勢などに高尾城を攻められ、自害した。この政変が加賀一向一揆の歴史の大きな節目となる。[09]

信仰と加賀の政治で読む ↗
しくみ

土豪どごう

地域に土地や人のつながり、武力などの基盤を持つ有力者。加賀では門徒勢力の中にも土豪がいた。

信仰と加賀の政治で読む ↗
しくみ

百姓ひゃくしょう

中世の地域社会を構成する人々を指す語。農業に加えて、さまざまな生業に携わる人々を含む。「百姓の持ちたる国」は加賀の政治状況を伝える表現。[07][09]

信仰と加賀の政治で読む ↗
人物

二曲右京進ふとげうきょうのしん

二曲城の城主として伝わる人物。鈴木氏との系譜上の関係には複数の説がある。[05][06]

鳥越城の誕生で読む ↗
地名・拠点

二曲城ふとげじょう

鳥越城と大日川を挟んで向かい合う、標高268mの山城。鳥越城の支城として両城の攻防に関わった。[05]

周辺の城と寺で読む ↗
地名・拠点

舟岡城ふなおかじょう

鶴来付近、白山麓から加賀平野へ向かう入口側にある山城。一向一揆に関わる軍事拠点。[06]

周辺の城と寺で読む ↗
城の構造

掘立柱建物ほったてばしらたてもの

地面に掘った穴に柱を立てる構造の建物。柱穴の並びから、失われた建物の規模や配置を調べることができる。[18]

城に暮らした人々で読む ↗
城の構造

本丸ほんまる

城の中心にあたる曲輪。鳥越城では建物跡や大量の炭化米、陶磁器などが見つかっている。[02]

山を城にするで読む ↗
信仰

坊舎ぼうしゃ

僧侶の住まいや、信仰活動のための建物・施設。鮎滝坊は松岡寺が白山麓に設けた坊舎。[03]

周辺の城と寺で読む ↗
城の構造

枡形ますがた

入口付近を方形の空間に区切る構造。通路を折り曲げ、進入する人の動きを制約する。桝形とも書く。[02]

山を城にするで読む ↗
しくみ

山内衆やまのうちしゅう

手取川・大日川流域を中心とする、白山麓の本願寺門徒らの地域勢力。鳥越・二曲の両城を拠点に織田軍と戦った。[01][02]

鳥越城の誕生で読む ↗
しくみ

山内惣庄やまのうちそうしょう

手取川・大日川流域の門徒組織の呼称。山内惣中ともいう。鈴木出羽守がその指導者だった。[02]

鳥越城の誕生で読む ↗
できごと

落城らくじょう

守る側が城を保てなくなり、攻める側に奪われること。鳥越・二曲は1580年に落城し、翌年に山内衆が奪回した。[02]

三年の攻防で読む ↗
地名・拠点

和田山城わだやまじょう

現在の能美市寺井地域にある山城。一向一揆に関わる加賀の軍事拠点の一つ。[11]

周辺の城と寺で読む ↗
本文・図版の資料

出典と補注

白山市・石川県の文化財解説、鳥越一向一揆歴史館の展示資料、発掘調査報告書の書誌を参照。

編集について史料と記述の方針

歴史の経過は、市・県・歴史館の解説を中心に構成した。築城年、鈴木出羽守の出自、交渉の細部など、資料の異同がある箇所は各章の補注に記載。

参照範囲は各資料の説明に示した。発掘調査報告書[18]は書誌・遺跡抄録を参照。本文の叙述と図解は本ページの編集による。

閲覧確認日:2026年9月22日。

図版写真・模型・地形図の出典と作成方法

現地写真と平面図は利用者提供。平面図の作成者は白山市観光文化スポーツ部。写真中の案内板・図面の権利は各権利者に帰属する。

出土品の参考画像はAI生成。実際の出土品の写真は鳥越一向一揆歴史館の収蔵品紹介で確認できる。曲輪・土塁・堀切・枡形虎口の模型は、構造の働きを示す独自の模式図。

広域地形と現在の城域地形は、国土地理院の標高タイルを加工して描画した。取得日:2026年9月22日。表示用に間引き・補間を行っている。利用条件は国土地理院コンテンツ利用規約による。

鳥越城の拡大3Dは、提供平面図の等高線、曲輪の縁、堀底・堀肩・土塁天端を数値化して再構成した。堀底などの高さは周囲の等高線から推定。二曲城は市パンフレットの曲輪配置を現在の地形に重ねた。詳細は第4章の「地形の作成方法と再構成の範囲」に記載。

地図の●は城跡の代表点、○は地区の代表点。地域の位置は国土地理院の住所検索等を参照し、各地点の出典は選択時に表示する。地形図は歴史解説用。

訪問情報は、その日の公式案内へ。

このページは歴史を読むためのもの。入山・道路・休館・見学できる範囲は変わるため、訪問前に鳥越一向一揆歴史館の公式案内 ↗を確認してください。